柏崎特別支援学校
柏崎特別支援学校

写真で見る柏崎特別支援学校のあゆみ ?病弱教育50年史?


<昭和28年頃>
病室で学びあう子どもたち

 当時は、全国的に結核患者が多数発生し、新潟療養所でも成人から子どもまで多くの患者が長期療養を続けていた。しかし、学齢期の子どもたちにもっとも大切な教育の機会は、望むべくもない状況にあった。

 「わたしは療養生活に入ってから1年半になります。健康な友だちと別れてからの1年半は、わたしの生活に何を与えたのでしょうか。健康な友だちは一日一日と学校で学び、りこうになってゆくのに、わたしはベッドの上で何をすることもなく暮さなければならないのです。あきらめきれないのです。」(当校「創立三十周年記念誌-当時のある子どもの手記より-」)

<昭和29年>
この六坪教室から病弱教育が始まった
 この状況をみかね、同療養所で療養中の教員の会「教療会」が立ち上がり、行政機関に教育施設開設を陳情するとともに補習授業を始めた。
 そして、昭和29年献身的な運動が実を結び新療学園が開設、児童生徒数16名で私的な制度ながら病弱教育がスタートした。
 十療棟・臥堂を教室及び教員室に充て、入所中の教職員2名を専任教員に、他に8名の応援を得て運営に当たった。

<昭和30年頃>
退所おめでとう、みんなで送った
 昭和33年4月、柏崎市立第三中学校の養護学級として認可され、正式教員1名が配当された。しかし、予算上の措置はなかったため、運営は困難を極めた。
 「一番苦しかったことは学園経営のための経費が全然ないことで、病院でも気の毒に思って、筆紙類の消耗品は現物で支給してくれましたが、時には自腹を切らなければならないこともありました。そうした点からも学園そのものを正式に認めてもらわなければなりません。藁をもつかむ思いで県や市の要路の人や学校関係者の間を飛びまわっていました。」(当校「創立二十周年記念誌・丸山員弥」)

<昭和32年頃>
秋、海岸へのバスハイク
 昭和32年、児童生徒数は40名を超え、新校舎の建設が望まれるようになった。この年、病棟増改築が具体化し、これに合わせて教員室1、放送室1、教室2が新築された。

 「開設4年目にしてようやく狭いながらも楽しいわが家が実現できました。この時のうれしかったことと、病院側のご厚意は忘れられません。」と、当時を知る職員は語った。
 また、この年、三条養護学園が県立三条養護学校として新しく発足した。これは、全国でも3番目の病弱養護学校であった。

<昭和33年頃>
授業時の服装が変わってきた
 昭和33年4月、柏崎市立大洲小学校、柏崎市立第三中学校の分校として認可された。これにより公教育としての制度が整うが、施設設備面では、相変わらず病院の特別な計らいに依存しなければならなかった。
 “独立した養護学校”を目ざして、教職員の努力が続けられた。

<昭和34年頃>
学校の庭でスイカ割りを楽しむ
 昭和38年、県立に移管され、県立三条養護学校柏崎分校と改称された。独立校にはなれなかったが、一歩前進ではあった。
 三条養護学校は、昭和46年三条結核病院の廃止が決まり、小児病棟が県立吉田病院に移転併設となったことで学校も移転した。そして、昭和51年3月、結核児対象の病弱教育という役割を終えた三条養護学校は閉校した。
 同年4月、開校した県立吉田養護学校にその伝統が引き継がれた。
 

<昭和40年>
11年目を迎えた頃の校舎
 昭和39年、新療学園から数えて、創立十周年を迎えた。記念大運動会、記念式典等の関係行事が行われ、「創立十周年記念誌」が文集「よねやま23号」の合併号として発刊された。
 昭和41年4月、県立柏崎養護学校として念願の独立を果たした。小学部14名、中学部13名、補修課14名、計44名、校長、教職員14名という体制で新たなスタートを切った。
 また、結核児が減少し、非結核児の長期欠席が相当多数存在していることが判明したことから、11月には非結核児の受け入れが始まった。

<昭和42年>
柏崎・赤坂山にも雪が積もり
 しかし、非結核児を受け入れることは、感染の予防、教育課程の編成など医療面、教育面において多くの問題を抱えていた。医・教の職員は連携協力し、それらを創意工夫により乗り越え、次第に結核児中心から他の慢性疾患児の教育へと移行していった。
 また、昭和42年から新潟療養所が筋ジス児の受け入れを始め、学校職員が病棟でベッドサイド学習を始めた。
 そして、結核児を「桜学部」、慢性疾患児を「柏学部」、筋ジス児を「松学部」とする三学部制をとり、病気の種類に応じた教育課程を編成し教育を行った。

<昭和45年>
閉回路テレビ(CCTV)放送盛んに
 3つの学部が一緒に学習できないため、閉回路テレビを使って学習や行事の様子を教室や病棟へ放送した。この取組は、昭和45年関ブロ研究大会でその成果が発表され、多くの注目を集めた。
 このような研修への取組では、他に昭和48年全国筋ジストロフィー症児教育研究大会開催、54年関東甲信越地区病弱虚弱教育研究大会開催、55・56年文部省研究指定校(57年研究発表会開催)、58年全国重症心身障害児教育担当者研究協議会開催、平成8?10年国立特殊教育総合研究所研究協力校、8年全国病弱虚弱教育研究大会新潟大会開催、などがある。

<昭和47年>
新校舎が完成する
 昭和46年、全国初の筋疾患児の高等部が設置された。4月の入学式には、中学部から3名の生徒が晴れの式に臨んだ。
 高等部設置は、中学部在籍生徒からの強い要望を受け、当時の職員を始め多くの人々の善意と熱意が行政を動かし、実現したものだった。
 昭和47年、小学部64名、中学部27名、高等部10名、計101名となり、この年初めて在籍数が100名を超えた。 

<昭和59年>
創立30周年を記念し、校旗樹立
 昭和49年、創立20周年を迎え、記念式典のあとに児童生徒の手によって記念植樹(カキ、クリ、ツツジなど)が行われた。

 新潟療養所では、10年以上前から重症心身障害児を受け入れていたが、学齢児童は就学免除扱いとなっていた。しかし、これらの子どもたちにも「勉強したいと」という願いがあり、これに応えようと、当校職員がボランティア活動として3名の子どもたちに学習指導を始めた。

 そして、昭和50年「みどり学級」(施設訪問学級)を開設し、4月入学式を行い、職員の奉仕という形で重心児への教育が始まった。
 翌年には、重心児8名が訪問学級として認可され、昭和54年養護学校義務制にともない、在宅の子どもたちへの訪問学級が認可された。

 昭和59年、創立30周年記念式典が行われ、記念誌「豊けき朝」の発行、校旗の樹立、中庭に「希望」の像が建てられた。
 のぎく分校は、昭和53年に長岡市立表町小学校・同市立北中学校の病院併設分校から県立に移管され、当校のぎく分校となり、現在に至っている。
 さざなみ分校は、昭和54年に柏崎市立比角小学校・同市立第三中学校さざなみ学園分校から県立に移管され、当校さざなみ分校(知的障害)となった。平成15年には、児童生徒数の増加や地域のニーズにより当校から独立し、県立はまなす養護学校となった。

<平成17年>
創立51年目の春
 平成16年、創立50周年を迎え、病弱教育における半世紀の歴史を刻んだ。
 「この子らの生きる道を閉ざしたままに、療養に専念せよとする非情、これでよいのだろうか。気づいたものが立ち上がらねばならぬ。」(笹川芳三先生の手記より)
 すべては、病弱児によせるこの熱い思いから始まった。
 児童生徒数は、昭和62年に120名を超えピークとなり、以後減少し続け、ここ数年は30名程度で推移している。しかし、今病弱教育は、新たなニーズへの対応や特別な支援を必要とする子どもたちへの支援という、重要な役割を担うこととなった。
 これからも、建学の精神を引き継ぎ、子どもとともに歩み続けていく。

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